【非吉卜力】【押井守】【对谈】悩めるリーダーはSFに学べ 押井守 夏野剛
悩めるリーダーはSFに学べ
/押井 守(映画監督)、夏野 剛(慶應義塾大学特別招聘教授)
2012年11月14日 VOICE
人間とロボットの境界線がなくなる時代
夏野 私は押井さんがつくるアニメーション作品の大ファンで、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995年/以下、『攻殻』)も『イノセンス』(2004年)も何度も見ました。いまあらためて思うのは、時代が『攻殻』の世界に近づいてきたということです。たとえばiPadでは、情報を目からインプットし、手を使ってアウトプットする。これをBluetooth(近距離無線通信規格)のヘッドセットをして、考えただけで電気信号が飛んで検索が行なわれ、その結果が視覚に直接飛び込んでくるといった具合に、「目や手を介さない」インプットとアウトプットができるようになれば、それはまさに『攻殻』で描かれた世界です。
押井 『攻殻』をつくった当時、僕はまだインターネットという概念すら知りませんでした。ただ、「絶えずどこかにつながっている」という感覚が、時代を支配する予感はあった。そこから「こうなれば面白いな」「でもこういう世界が実現すれば、仕事をサボれないから困るな」などと妄想を膨らませていきながら、作品をつくっていったのです。
夏野 作品には、「義体(サイボーグ)」となり、ネットワークと直接つながるキャラクターも登場しますね。ここでは「自分とは何か」が問われている気がします。
押井 じつは「自我」というものは、けっこう曖昧なものなのです。よくよく考えてみると、1日のうちにどれだけ、「自分」を意識している時間があるのでしょうか。ほとんどないのが現実です。しかし無意識でも、ちゃんと生活はできる。現に今日だって、考え事をしたり、本を読みながらここまで歩いてきたけど、ちゃんと目的地にたどり着くことができました。
夏野 酔っぱらって記憶がなくなっても、ちゃんと家に帰るのと同じですね。意識しなくても経験や習慣に基づいて行動できるということは、人間なんて半ば、プログラミングに沿って動く「ロボット」みたいなものだとも思います。
押井 ただ、ときどき「なぜ自分がここにいるのかわからない」という状態になるときもある。恵比寿で講演をしていたはずなのに、気づいたら知らないビルのベランダに立っていたこともありました(笑)。解剖学者の養老孟司さんも「ある日気づいたら、スキー場のゲレンデに立っていた」とおっしゃっていた。ちゃんと切符も買って電車に乗ってきたのだけど、まったく覚えていない、と。これはいわば頭がショートしている状態です。
ただ、ショートしたときのほうが、世界が新鮮にみえる。だから私は、人間を「変にできている」とも思うし、「ちゃんとできている」とも感じるんです。
夏野 大阪大学でアンドロイド(人型ロボット)の研究をしている石黒浩教授から、こんな話を聞いたことがあります。彼は5年前に自分そっくりのアンドロイドをつくった。完成当初は瓜二つだったのですが、時間が経つと生身の石黒先生だけが歳を取り、アンドロイドのほうが若くみえるようになった。アンドロイドを修正するには300万円かかる。そこで石黒先生は、ほうれい線をなくす、しわを取るといった若返りの整形手術なら10万円で済むからと、自分のほうを修正してしまった(笑)。まさに人間とロボットの境界線がなくなる、すごい時代になったものだと思いました。
押井 『イノセンス』をつくるときにロボット工学の専門家からいわれたのは、「人工知能の研究なんて無駄」ということでした。機械を人間に近づけることができるわけはない。なぜなら「人間とは何か」さえ、いまだに定義はなく、定義できないものは科学の対象ではないからだ、と。一方で人間がコンピュータやロボットに近づくことは可能で、そちらをやったほうがよほど早い。石黒先生の事例がまさにそうですね。
夏野 石黒先生のアンドロイドは、先生に代わって講演もできるそうです。講演依頼が来たとき、「どちらがいいですか」と聞くと、ほとんどの人が「アンドロイド」と答えるので、「どっちがほんとうの俺なんだ」と悩んでいました(笑)。『攻殻』に出てくる「人形使い」のように、アンドロイドがしゃべっている最中、パソコンを使って、違う話をさせることもできる。ますます「どれが本物?」という話になってきますね。少なくとも今日のような対談のときは、アンドロイドで十分かもしれない。(笑)
押井 ぜひとも1台欲しいですね。
夏野 上半身だけ動くものが1000万円、移動できるものは2000万円するみたいですよ。
コミュニケーションの二つの側面
夏野 先ほど「つながる感覚」とおっしゃいましたが、IT技術は明らかにわれわれのコミュニケーションの仕方を変えました。24時間365日、常時接続でネットにつながっていられる。さらにはツイッターやフェイスブックが広まったことで個人の情報発信能力が従来の何千倍、何万倍にもなった。まさに個人がITによって「武装」する時代です。
押井 一度に多くの人とつながりがもてるようになったのは確かですね。ただ私は、ネットでのコミュニケーションについてはどこか懐疑的です。拙著『コミュニケーションは、要らない』(幻冬舎新書)にも書きましたが、コミュニケーションには二つの側面がある。一つは、現状を維持するためのコミュニケーション。近所付き合いする、会社で同僚と関係を築く、恋愛関係や夫婦関係を保つ、といったものです。もう一つは、異質なものと付き合うためのコミュニケーション。会社や学校での会議、国同士の外交、恋愛や結婚の初期段階で必要な交渉などのことです。
ネット社会では個人がむき出しになるあまり、本質的な問題について真剣に「議論」することなどできない。そして、前者だけを「コミュニケーション」と考えてきたのが日本社会です。
夏野 日本人のいうコミュニケーションは、「周りと仲良くやること」。だから、周りと摩擦を起こす人のことを「コミュニケーションが取れない」といいますが、まったくの間違いですね。
押井 日本という国自体が、異文化とのコミュニケーションを必要としない“ムラ社会”だったからでしょう。限られた土地で田んぼをつくり、一定の面積に無制限に労働力を入れる。そういう社会でいちばん評価されるのは、いちばん汗をかいている人。そこから「言葉は要らないから働け」という社会になっていったのです。
僕が新米クリエーターだったころ、アニメスタジオで「あの監督の作品は……」などと語っていると、「人の悪口をいわないで、自分の仕事をしろ」と、スタッフによくいわれました。映画制作は職人の世界ですが、農村にしても職人の世界にしても、同じ種類の人間ばかりが働いていることが前提になっているから、余計なことをいうと睨まれる。同じことが、日本全体にもいえます。
夏野 いまの日本を見渡すと、政治の世界でも企業社会でも、まさにそうしたコミュニケーション不全が至るところでみられます。たとえば私にいわせれば、国会議員の半分以上はコミュニケーション能力が欠如している、といわざるをえない。
押井 台本がないと答弁できないし、記者会見をしても全然面白くない。つまり言語に関するスキルが決定的に欠けているのではないか。ネットや携帯電話といったIT機器がいくら発達しても、いちばん重要なコミュニケーションツールは「言葉」です。文章が書けない、語れない人間は、物事を論理的に考えることができない。
夏野 政治家はたとえ曖昧なことをいっても、周りの人間がフォローしますからね。
押井 曖昧にしゃべるのは、言質を取られないようにする意図もあるのでしょう。しかしそれでは言語能力は低下するばかり。最初は「リスクが少ないから」とそうしているうちに、ほんとうに能力を失ってしまいます。
日本ではよく政治家が舌禍事件で失脚しますが、僕はもう少し寛容になってもいいのではないかと思う。公人である以前に特定の個人なのですから、あとで謝りさえすれば、失言についても許すところは許すべきです。そうすれば、もっと言いたいことがいえるようになるし、言語能力も磨かれる。もちろん、外国の首脳と条約を結んだり、トップ会談をするときにいい加減なことをいっては困るけれど、いまの国民やメディアをみていると、過剰に反応しすぎではないか。
夏野 日本の政治家では、やはり大阪市長の橋下徹さんは弁護士出身ということもあって、言語能力が高いですね。東京都副知事の猪瀬直樹さんも『言葉の力』(中公新書ラクレ)という本を書かれているぐらい、言葉を大切にしている。自民党幹事長に就任した石破茂さんも、他人のいうことをきちんと聞いたうえで自分の意見を述べるタイプで、コミュニケーション能力がある。民主党内では前原誠司さんが「年明け解散では『近いうち』とはいえない」と衆議院の解散時期に踏み込んだ発言をしました。内輪の摩擦を恐れないこの発言で、私は少し、彼のことを見直しましたよ。
押井 あるいは石原慎太郎さん。記者会見を聞いていて、いちばん面白いのは間違いなく彼です。6月には中国の領海侵犯が続く尖閣諸島問題を念頭に、中国から貸与されている上野動物園のパンダに子供が生まれたら「『センセン』『カクカク』と名付けたらいい」と発言しました。これこそ言葉のセンスです。真面目な話を真面目にしかできないのは言語能力とはいいません。もちろん言語能力が高いのはあくまで最低条件であって、政治家としての「中身」が重要なのはいうまでもありませんが。
夏野 中身がきちんとしていて言語能力も高いのか、それとも中身がなくて話だけがうまいのか。民主党の体たらくをみるにつけ、政治家を判断するときは、その区別をきちんとつけなければなりませんね。
◆誰のために製品をつくるのか◆
夏野 私は9月に『なぜ大企業が突然つぶれるのか』(PHPビジネス新書)という本を出しましたが、そこで議論しているのは、製造業に代表される日本の大企業のあまりにひどい内実です。ITによって社会状況が根本から変化し、「多様性」が求められる時代になった。しかし多くの日本企業は相変わらず、「30年同じ釜の飯を食ってきたメンバー」で会社組織を運営している。30年同じ釜の飯を食っている同質的な集団は、たとえるならひとたび食中毒が起これば全員が死んでしまう、つまりちょっとした環境変化への耐性がない。日本の家電メーカーで危なそうなところをみると、役員のほとんどは生え抜きの30年選手です。
押井 自分たちの会社は絶対に潰れないと思っているし、いまも世界のトップ企業だと思っている。だから変革をする気も起こらないのでしょう。
夏野 『コミュニケーションは、要らない』で興味深かったのは、旧日本軍の司令部で使われていた言葉が劣化したという事実です。明治時代の命令書には曖昧さがまったくなく、指示が的確に記されていました。しかし太平洋戦争末期になると、その内容は「活動目標が明確でない」「優先順位もまったく伝わらない」ものに変化してしまった。責任の所在を明らかにせず、「現場で判断しろ」と丸投げされたんです。まさにこの体質を日本企業が引きずっていて、部下に対して何をさせたいのかわからない指令が日々、飛び交っている。私もNTTドコモ時代、そうした理不尽さにさんざん直面しました。
押井 逆に、日常的にいちばん説明が求められるシーンが多い中間管理職クラスの人が、リーダーよりもはるかに言語能力が高いというのが日本の構造ですね。
夏野 それでは先行きは暗いといわざるをえません。拙著にも書きましたが、リーダーの役割とは「反発を恐れず、進むべき方向性を指し示す」こと。しかしいま企業のリーダーの多くは自分の考えがなく、「社内から上がってくる対立意見を2つ並べて折衷案を採用する」ことしかできない。いっけん「話し合い」によって物事が決められたようにみえますが、これはコミュニケーションではない。映画制作でもスタッフの意見を逐一聞いていたら、よい作品はつくれないでしょう。
押井 もう1つリーダーに必要な要素を挙げるなら、「ビジョンをもつ」でしょうね。よく「毎朝、『日経新聞』を読んでいる」という経営者の話を聞きますが、漫然とニュースを追いかけるだけでは意味がない。それより自分のビジョンや視点を確立し、それに沿った情報を得るような努力をすべきでしょう。そうしたビジョンを身につけるためにマンガやアニメは役に立つし、古典の本をたくさん読むことも重要になる。
じつは、私は新聞も週刊誌もほとんど読みません。ニュースは自分から探すものではなく、興味、関心のフィルターを自然と通過して「入ってくるもの」なのです。入らないものは知らなくていい。世の中がどう動いているかは、自分が考えたり、生活するなかで自然とみえてきますから。
夏野 しかし残念なことに、そんなことができるメーカーの社長はほとんどいませんよ。(笑)
押井 だからメーカーの社員に会うと、みんなどこか自信なさげなのかな。逆に、夏野さんみたいにIT系の人は、「何で、こんなに自信をもっているんだろう」と、とても不思議な気がします。(笑)
夏野 私が自信家かどうかはともかく(笑)、メーカーの社員に自信がないのは、いわゆる「サラリーマン」として生きているからでしょうね。日本企業は「モノづくり」はうまいかもしれないけれど、人の心をわしづかみにする製品はつくれないことが多い。その最大の理由は、「誰のためにつくっているのか」がズレているから。たとえば携帯電話メーカーであれば、ドコモやソフトバンクといった携帯事業者に気に入られることを第一に考えている。あるいは会社の上司の評価を得ようと仕事をする。これではこぢんまりとした製品しか生まれないのは当然です。製品開発に必要なのはいうまでもなく、消費者とのコミュニケーション。「上司を見るな。自分の奥さんのためにつくれ!」といいたいですね。
◆SF作品に求められるリアリティー◆
押井 映画でも「誰に向けてメッセージを発信するか」は非常に重要です。作品の先に観客がいますから、SFであっても観客が世界観についてこられるリアリティーがなければいけない。だから『鉄腕アトム』の世界にも、公衆電話が出てくる。未来を描いたアニメには舞台が学校や軍隊というケースが多い。「先生に逆らってはいけない」「制服を着なければいけない」といった部分でルールが共有されており、リアリティーが出しやすいからなんです。
夏野 だから感情移入しやすいのですね。
押井 『攻殻』が警察であるのも、そのためです。『機動警察パトレイバー』(1989年)や『ケルベロス 地獄の番犬』(1991年)など、僕のやってきた仕事には警察ものが多い。もちろんオファーとして警察ものが多かったというのもありますが、自分の妄想に根拠を与えるための方便として、警察を選んでいたのではないか。手帳と令状さえあれば警察はどこにでも入れます。職務という大義名分のもと、誰にでも会いに行けるし、どこにでも上がり込んで勝手に振る舞える。だからドラマがつくりやすいのです。
夏野 警察ものであれば、凡人のふりをした悪人から、ヤクザのような善人まで、いろんな人を出せますからね。軍隊だと、戦争がないかぎり出番がないから、訓練ばかりの描写になってしまい、範囲がどうしても狭まってしまう。
押井 そうですね。ただ初めて軍隊というか、民間の戦争企業を描いた『スカイ・クロラ』(2008年)をつくったときには、とくに不自由さは感じませんでした。兵士のDNAが保存され、別の兵士に刷り込まれることでスキルが再生されるというのが映画の主題です。
夏野 『スカイ・クロラ』では「(主人公が)戦い方をなぜか知っている」という感覚が重要な鍵ですね。DNAレベルで刷り込まれているために、渡り鳥が正しい方向に飛んでいけるのと同じ論理。記憶や体験のどこまでが遺伝子的に伝わり、どこまでが伝わらないかは誰も解明できていない。そうした難題に正面からぶつかっている名作です。
押井 『攻殻』は、獲得したスキルや能力が全部リセットできるという話。一方、『スカイ・クロラ』は、それが滞留したらどういう世界になるかという話です。残念ながら観客にとってはあまりピンとこなかったみたいで、それほど評判になりませんでしたが。
夏野 メッセージが正確に伝わったかどうか測るのは、なかなか難しい。観客動員数がどれだけ多くても、それとメッセージが伝わったかどうかは別ですから。ハリウッド映画の観客動員数が多いのも、宣伝が活発なために「これを観ておいたほうがいいかな」と思う人が増えるというのがいちばんの要因です。必ずしも中身が評価されているわけではない。
押井 だからこそ、マスではなく、「特定の誰か」に向けた作品づくりも必要です。ジブリの宮崎駿監督は、ある時期までは自分の息子のために映画を撮っていました。ジブリ映画の主人公が女の子ばかりなのも、宮崎さんの4人兄弟が全員男で、子供も男だということの裏返し。だから、あれほどきれいな女の子を描けたのだと思いますね。正直な話をすると、私も『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(7984年)を撮った時期ぐらいまでは、娘のために制作していました。だから当時のフィルムをみると、なぜか背景として女の子がしょっちゅう出てくる。おそらく、「このあたりに女の子がほしいな」と無意識のうちに思ったのでしょう。
◆いまこそ『攻殻』を観るべきだ◆
夏野 冒頭で述べた『攻殻』の主人公も、若い女性ですよね。
押井 あれは主人公が女性だから成立したのです。女性は「自分という存在は、代々つながっているなかの1つでしかない」という感覚をもっている気がします。だからネットと直接つながる世界との親和性が高いのではないか。あるいは自分の存在と肉体を分けて考えるため、「義体」に対してもさほど抵抗を示さない。化粧や美容整形といった肉体の外見を変える行為も、ためらうことなく行なうことができるのは、そのためでしょう。
逆に男性から『攻殻』の感想を聞くと、「『義体』なんかまっぴらごめん」という声が多い。自分の身体についてどこか観念的であるために、かえって肉体に執着したり、コンプレックスをもったりするように思います。
夏野 たしかに男性は自分の肉体を「武器」と捉え、完成させようとします。マッチョ願望というか、「身体を鍛えると女の子にモテる」と本気で思い、筋トレや空手などのスポーツを始めたりする。私も空手を習い始めたところですが(笑)、じつはそんなことをしてもまったくモテません。この前の練習では肋骨を折ってしまいました。(笑)
押井 男は基本的にバカなんですよ(笑)。声優や役者のなかには、「自分はいつまでも子供だ」「やりたいことはすべてやる」と開き直っている人もいますね。僕の周りにもたくさんいますが、ついつい「しようがないなあ」って付き合ってしまう。一方、女の子は6歳ぐらいになると「大人のスイッチ」がときどき入って、男の幼稚な行動を覚めた目でみるようになる。
少し乱暴な言い方をすると、たぶん「動物」や「女」という世界があって、男はそこでは不要な存在なのです。生き物であることに忠実であればあるほど、動物や女の世界に向かうため、男は生き物から外れた存在とすらいっていい。そういう人間が携帯をつくったり、パソコンをつくったりしているわけですから。
夏野 たしかに製品の半分ぐらいは、本質的には「不要」。だからこそ、男のつくる製品には自分の実現したい世界が表現されるところがあるのでしょう。NTTドコモ時代につくった「iモード」や「おサイフケータイ」にしてもそうでした。私は生粋のSF好きで、新しいサービスを考えるとき、つねにSFのアニメ、映画、小説などを参考にした。SFの真骨頂は、リアリティーのなかに未来社会で問題になりそうなテーマや使われそうな技術を提示していること。その世界観を現実の社会で実現したかったんです。
SFの世界観から学べることはほんとうに多い。押井さんのいわれるとおり、そこから「ビジョン」が生まれることは多々あります。いまこそ私は日本企業の経営者に「『攻殻』を観ろ」といいたい。そこで描かれた夢の世界を実現していくのは、楽しいじゃないですか。
/押井 守(映画監督)、夏野 剛(慶應義塾大学特別招聘教授)
2012年11月14日 VOICE
人間とロボットの境界線がなくなる時代
夏野 私は押井さんがつくるアニメーション作品の大ファンで、『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995年/以下、『攻殻』)も『イノセンス』(2004年)も何度も見ました。いまあらためて思うのは、時代が『攻殻』の世界に近づいてきたということです。たとえばiPadでは、情報を目からインプットし、手を使ってアウトプットする。これをBluetooth(近距離無線通信規格)のヘッドセットをして、考えただけで電気信号が飛んで検索が行なわれ、その結果が視覚に直接飛び込んでくるといった具合に、「目や手を介さない」インプットとアウトプットができるようになれば、それはまさに『攻殻』で描かれた世界です。
押井 『攻殻』をつくった当時、僕はまだインターネットという概念すら知りませんでした。ただ、「絶えずどこかにつながっている」という感覚が、時代を支配する予感はあった。そこから「こうなれば面白いな」「でもこういう世界が実現すれば、仕事をサボれないから困るな」などと妄想を膨らませていきながら、作品をつくっていったのです。
夏野 作品には、「義体(サイボーグ)」となり、ネットワークと直接つながるキャラクターも登場しますね。ここでは「自分とは何か」が問われている気がします。
押井 じつは「自我」というものは、けっこう曖昧なものなのです。よくよく考えてみると、1日のうちにどれだけ、「自分」を意識している時間があるのでしょうか。ほとんどないのが現実です。しかし無意識でも、ちゃんと生活はできる。現に今日だって、考え事をしたり、本を読みながらここまで歩いてきたけど、ちゃんと目的地にたどり着くことができました。
夏野 酔っぱらって記憶がなくなっても、ちゃんと家に帰るのと同じですね。意識しなくても経験や習慣に基づいて行動できるということは、人間なんて半ば、プログラミングに沿って動く「ロボット」みたいなものだとも思います。
押井 ただ、ときどき「なぜ自分がここにいるのかわからない」という状態になるときもある。恵比寿で講演をしていたはずなのに、気づいたら知らないビルのベランダに立っていたこともありました(笑)。解剖学者の養老孟司さんも「ある日気づいたら、スキー場のゲレンデに立っていた」とおっしゃっていた。ちゃんと切符も買って電車に乗ってきたのだけど、まったく覚えていない、と。これはいわば頭がショートしている状態です。
ただ、ショートしたときのほうが、世界が新鮮にみえる。だから私は、人間を「変にできている」とも思うし、「ちゃんとできている」とも感じるんです。
夏野 大阪大学でアンドロイド(人型ロボット)の研究をしている石黒浩教授から、こんな話を聞いたことがあります。彼は5年前に自分そっくりのアンドロイドをつくった。完成当初は瓜二つだったのですが、時間が経つと生身の石黒先生だけが歳を取り、アンドロイドのほうが若くみえるようになった。アンドロイドを修正するには300万円かかる。そこで石黒先生は、ほうれい線をなくす、しわを取るといった若返りの整形手術なら10万円で済むからと、自分のほうを修正してしまった(笑)。まさに人間とロボットの境界線がなくなる、すごい時代になったものだと思いました。
押井 『イノセンス』をつくるときにロボット工学の専門家からいわれたのは、「人工知能の研究なんて無駄」ということでした。機械を人間に近づけることができるわけはない。なぜなら「人間とは何か」さえ、いまだに定義はなく、定義できないものは科学の対象ではないからだ、と。一方で人間がコンピュータやロボットに近づくことは可能で、そちらをやったほうがよほど早い。石黒先生の事例がまさにそうですね。
夏野 石黒先生のアンドロイドは、先生に代わって講演もできるそうです。講演依頼が来たとき、「どちらがいいですか」と聞くと、ほとんどの人が「アンドロイド」と答えるので、「どっちがほんとうの俺なんだ」と悩んでいました(笑)。『攻殻』に出てくる「人形使い」のように、アンドロイドがしゃべっている最中、パソコンを使って、違う話をさせることもできる。ますます「どれが本物?」という話になってきますね。少なくとも今日のような対談のときは、アンドロイドで十分かもしれない。(笑)
押井 ぜひとも1台欲しいですね。
夏野 上半身だけ動くものが1000万円、移動できるものは2000万円するみたいですよ。
コミュニケーションの二つの側面
夏野 先ほど「つながる感覚」とおっしゃいましたが、IT技術は明らかにわれわれのコミュニケーションの仕方を変えました。24時間365日、常時接続でネットにつながっていられる。さらにはツイッターやフェイスブックが広まったことで個人の情報発信能力が従来の何千倍、何万倍にもなった。まさに個人がITによって「武装」する時代です。
押井 一度に多くの人とつながりがもてるようになったのは確かですね。ただ私は、ネットでのコミュニケーションについてはどこか懐疑的です。拙著『コミュニケーションは、要らない』(幻冬舎新書)にも書きましたが、コミュニケーションには二つの側面がある。一つは、現状を維持するためのコミュニケーション。近所付き合いする、会社で同僚と関係を築く、恋愛関係や夫婦関係を保つ、といったものです。もう一つは、異質なものと付き合うためのコミュニケーション。会社や学校での会議、国同士の外交、恋愛や結婚の初期段階で必要な交渉などのことです。
ネット社会では個人がむき出しになるあまり、本質的な問題について真剣に「議論」することなどできない。そして、前者だけを「コミュニケーション」と考えてきたのが日本社会です。
夏野 日本人のいうコミュニケーションは、「周りと仲良くやること」。だから、周りと摩擦を起こす人のことを「コミュニケーションが取れない」といいますが、まったくの間違いですね。
押井 日本という国自体が、異文化とのコミュニケーションを必要としない“ムラ社会”だったからでしょう。限られた土地で田んぼをつくり、一定の面積に無制限に労働力を入れる。そういう社会でいちばん評価されるのは、いちばん汗をかいている人。そこから「言葉は要らないから働け」という社会になっていったのです。
僕が新米クリエーターだったころ、アニメスタジオで「あの監督の作品は……」などと語っていると、「人の悪口をいわないで、自分の仕事をしろ」と、スタッフによくいわれました。映画制作は職人の世界ですが、農村にしても職人の世界にしても、同じ種類の人間ばかりが働いていることが前提になっているから、余計なことをいうと睨まれる。同じことが、日本全体にもいえます。
夏野 いまの日本を見渡すと、政治の世界でも企業社会でも、まさにそうしたコミュニケーション不全が至るところでみられます。たとえば私にいわせれば、国会議員の半分以上はコミュニケーション能力が欠如している、といわざるをえない。
押井 台本がないと答弁できないし、記者会見をしても全然面白くない。つまり言語に関するスキルが決定的に欠けているのではないか。ネットや携帯電話といったIT機器がいくら発達しても、いちばん重要なコミュニケーションツールは「言葉」です。文章が書けない、語れない人間は、物事を論理的に考えることができない。
夏野 政治家はたとえ曖昧なことをいっても、周りの人間がフォローしますからね。
押井 曖昧にしゃべるのは、言質を取られないようにする意図もあるのでしょう。しかしそれでは言語能力は低下するばかり。最初は「リスクが少ないから」とそうしているうちに、ほんとうに能力を失ってしまいます。
日本ではよく政治家が舌禍事件で失脚しますが、僕はもう少し寛容になってもいいのではないかと思う。公人である以前に特定の個人なのですから、あとで謝りさえすれば、失言についても許すところは許すべきです。そうすれば、もっと言いたいことがいえるようになるし、言語能力も磨かれる。もちろん、外国の首脳と条約を結んだり、トップ会談をするときにいい加減なことをいっては困るけれど、いまの国民やメディアをみていると、過剰に反応しすぎではないか。
夏野 日本の政治家では、やはり大阪市長の橋下徹さんは弁護士出身ということもあって、言語能力が高いですね。東京都副知事の猪瀬直樹さんも『言葉の力』(中公新書ラクレ)という本を書かれているぐらい、言葉を大切にしている。自民党幹事長に就任した石破茂さんも、他人のいうことをきちんと聞いたうえで自分の意見を述べるタイプで、コミュニケーション能力がある。民主党内では前原誠司さんが「年明け解散では『近いうち』とはいえない」と衆議院の解散時期に踏み込んだ発言をしました。内輪の摩擦を恐れないこの発言で、私は少し、彼のことを見直しましたよ。
押井 あるいは石原慎太郎さん。記者会見を聞いていて、いちばん面白いのは間違いなく彼です。6月には中国の領海侵犯が続く尖閣諸島問題を念頭に、中国から貸与されている上野動物園のパンダに子供が生まれたら「『センセン』『カクカク』と名付けたらいい」と発言しました。これこそ言葉のセンスです。真面目な話を真面目にしかできないのは言語能力とはいいません。もちろん言語能力が高いのはあくまで最低条件であって、政治家としての「中身」が重要なのはいうまでもありませんが。
夏野 中身がきちんとしていて言語能力も高いのか、それとも中身がなくて話だけがうまいのか。民主党の体たらくをみるにつけ、政治家を判断するときは、その区別をきちんとつけなければなりませんね。
◆誰のために製品をつくるのか◆
夏野 私は9月に『なぜ大企業が突然つぶれるのか』(PHPビジネス新書)という本を出しましたが、そこで議論しているのは、製造業に代表される日本の大企業のあまりにひどい内実です。ITによって社会状況が根本から変化し、「多様性」が求められる時代になった。しかし多くの日本企業は相変わらず、「30年同じ釜の飯を食ってきたメンバー」で会社組織を運営している。30年同じ釜の飯を食っている同質的な集団は、たとえるならひとたび食中毒が起これば全員が死んでしまう、つまりちょっとした環境変化への耐性がない。日本の家電メーカーで危なそうなところをみると、役員のほとんどは生え抜きの30年選手です。
押井 自分たちの会社は絶対に潰れないと思っているし、いまも世界のトップ企業だと思っている。だから変革をする気も起こらないのでしょう。
夏野 『コミュニケーションは、要らない』で興味深かったのは、旧日本軍の司令部で使われていた言葉が劣化したという事実です。明治時代の命令書には曖昧さがまったくなく、指示が的確に記されていました。しかし太平洋戦争末期になると、その内容は「活動目標が明確でない」「優先順位もまったく伝わらない」ものに変化してしまった。責任の所在を明らかにせず、「現場で判断しろ」と丸投げされたんです。まさにこの体質を日本企業が引きずっていて、部下に対して何をさせたいのかわからない指令が日々、飛び交っている。私もNTTドコモ時代、そうした理不尽さにさんざん直面しました。
押井 逆に、日常的にいちばん説明が求められるシーンが多い中間管理職クラスの人が、リーダーよりもはるかに言語能力が高いというのが日本の構造ですね。
夏野 それでは先行きは暗いといわざるをえません。拙著にも書きましたが、リーダーの役割とは「反発を恐れず、進むべき方向性を指し示す」こと。しかしいま企業のリーダーの多くは自分の考えがなく、「社内から上がってくる対立意見を2つ並べて折衷案を採用する」ことしかできない。いっけん「話し合い」によって物事が決められたようにみえますが、これはコミュニケーションではない。映画制作でもスタッフの意見を逐一聞いていたら、よい作品はつくれないでしょう。
押井 もう1つリーダーに必要な要素を挙げるなら、「ビジョンをもつ」でしょうね。よく「毎朝、『日経新聞』を読んでいる」という経営者の話を聞きますが、漫然とニュースを追いかけるだけでは意味がない。それより自分のビジョンや視点を確立し、それに沿った情報を得るような努力をすべきでしょう。そうしたビジョンを身につけるためにマンガやアニメは役に立つし、古典の本をたくさん読むことも重要になる。
じつは、私は新聞も週刊誌もほとんど読みません。ニュースは自分から探すものではなく、興味、関心のフィルターを自然と通過して「入ってくるもの」なのです。入らないものは知らなくていい。世の中がどう動いているかは、自分が考えたり、生活するなかで自然とみえてきますから。
夏野 しかし残念なことに、そんなことができるメーカーの社長はほとんどいませんよ。(笑)
押井 だからメーカーの社員に会うと、みんなどこか自信なさげなのかな。逆に、夏野さんみたいにIT系の人は、「何で、こんなに自信をもっているんだろう」と、とても不思議な気がします。(笑)
夏野 私が自信家かどうかはともかく(笑)、メーカーの社員に自信がないのは、いわゆる「サラリーマン」として生きているからでしょうね。日本企業は「モノづくり」はうまいかもしれないけれど、人の心をわしづかみにする製品はつくれないことが多い。その最大の理由は、「誰のためにつくっているのか」がズレているから。たとえば携帯電話メーカーであれば、ドコモやソフトバンクといった携帯事業者に気に入られることを第一に考えている。あるいは会社の上司の評価を得ようと仕事をする。これではこぢんまりとした製品しか生まれないのは当然です。製品開発に必要なのはいうまでもなく、消費者とのコミュニケーション。「上司を見るな。自分の奥さんのためにつくれ!」といいたいですね。
◆SF作品に求められるリアリティー◆
押井 映画でも「誰に向けてメッセージを発信するか」は非常に重要です。作品の先に観客がいますから、SFであっても観客が世界観についてこられるリアリティーがなければいけない。だから『鉄腕アトム』の世界にも、公衆電話が出てくる。未来を描いたアニメには舞台が学校や軍隊というケースが多い。「先生に逆らってはいけない」「制服を着なければいけない」といった部分でルールが共有されており、リアリティーが出しやすいからなんです。
夏野 だから感情移入しやすいのですね。
押井 『攻殻』が警察であるのも、そのためです。『機動警察パトレイバー』(1989年)や『ケルベロス 地獄の番犬』(1991年)など、僕のやってきた仕事には警察ものが多い。もちろんオファーとして警察ものが多かったというのもありますが、自分の妄想に根拠を与えるための方便として、警察を選んでいたのではないか。手帳と令状さえあれば警察はどこにでも入れます。職務という大義名分のもと、誰にでも会いに行けるし、どこにでも上がり込んで勝手に振る舞える。だからドラマがつくりやすいのです。
夏野 警察ものであれば、凡人のふりをした悪人から、ヤクザのような善人まで、いろんな人を出せますからね。軍隊だと、戦争がないかぎり出番がないから、訓練ばかりの描写になってしまい、範囲がどうしても狭まってしまう。
押井 そうですね。ただ初めて軍隊というか、民間の戦争企業を描いた『スカイ・クロラ』(2008年)をつくったときには、とくに不自由さは感じませんでした。兵士のDNAが保存され、別の兵士に刷り込まれることでスキルが再生されるというのが映画の主題です。
夏野 『スカイ・クロラ』では「(主人公が)戦い方をなぜか知っている」という感覚が重要な鍵ですね。DNAレベルで刷り込まれているために、渡り鳥が正しい方向に飛んでいけるのと同じ論理。記憶や体験のどこまでが遺伝子的に伝わり、どこまでが伝わらないかは誰も解明できていない。そうした難題に正面からぶつかっている名作です。
押井 『攻殻』は、獲得したスキルや能力が全部リセットできるという話。一方、『スカイ・クロラ』は、それが滞留したらどういう世界になるかという話です。残念ながら観客にとってはあまりピンとこなかったみたいで、それほど評判になりませんでしたが。
夏野 メッセージが正確に伝わったかどうか測るのは、なかなか難しい。観客動員数がどれだけ多くても、それとメッセージが伝わったかどうかは別ですから。ハリウッド映画の観客動員数が多いのも、宣伝が活発なために「これを観ておいたほうがいいかな」と思う人が増えるというのがいちばんの要因です。必ずしも中身が評価されているわけではない。
押井 だからこそ、マスではなく、「特定の誰か」に向けた作品づくりも必要です。ジブリの宮崎駿監督は、ある時期までは自分の息子のために映画を撮っていました。ジブリ映画の主人公が女の子ばかりなのも、宮崎さんの4人兄弟が全員男で、子供も男だということの裏返し。だから、あれほどきれいな女の子を描けたのだと思いますね。正直な話をすると、私も『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(7984年)を撮った時期ぐらいまでは、娘のために制作していました。だから当時のフィルムをみると、なぜか背景として女の子がしょっちゅう出てくる。おそらく、「このあたりに女の子がほしいな」と無意識のうちに思ったのでしょう。
◆いまこそ『攻殻』を観るべきだ◆
夏野 冒頭で述べた『攻殻』の主人公も、若い女性ですよね。
押井 あれは主人公が女性だから成立したのです。女性は「自分という存在は、代々つながっているなかの1つでしかない」という感覚をもっている気がします。だからネットと直接つながる世界との親和性が高いのではないか。あるいは自分の存在と肉体を分けて考えるため、「義体」に対してもさほど抵抗を示さない。化粧や美容整形といった肉体の外見を変える行為も、ためらうことなく行なうことができるのは、そのためでしょう。
逆に男性から『攻殻』の感想を聞くと、「『義体』なんかまっぴらごめん」という声が多い。自分の身体についてどこか観念的であるために、かえって肉体に執着したり、コンプレックスをもったりするように思います。
夏野 たしかに男性は自分の肉体を「武器」と捉え、完成させようとします。マッチョ願望というか、「身体を鍛えると女の子にモテる」と本気で思い、筋トレや空手などのスポーツを始めたりする。私も空手を習い始めたところですが(笑)、じつはそんなことをしてもまったくモテません。この前の練習では肋骨を折ってしまいました。(笑)
押井 男は基本的にバカなんですよ(笑)。声優や役者のなかには、「自分はいつまでも子供だ」「やりたいことはすべてやる」と開き直っている人もいますね。僕の周りにもたくさんいますが、ついつい「しようがないなあ」って付き合ってしまう。一方、女の子は6歳ぐらいになると「大人のスイッチ」がときどき入って、男の幼稚な行動を覚めた目でみるようになる。
少し乱暴な言い方をすると、たぶん「動物」や「女」という世界があって、男はそこでは不要な存在なのです。生き物であることに忠実であればあるほど、動物や女の世界に向かうため、男は生き物から外れた存在とすらいっていい。そういう人間が携帯をつくったり、パソコンをつくったりしているわけですから。
夏野 たしかに製品の半分ぐらいは、本質的には「不要」。だからこそ、男のつくる製品には自分の実現したい世界が表現されるところがあるのでしょう。NTTドコモ時代につくった「iモード」や「おサイフケータイ」にしてもそうでした。私は生粋のSF好きで、新しいサービスを考えるとき、つねにSFのアニメ、映画、小説などを参考にした。SFの真骨頂は、リアリティーのなかに未来社会で問題になりそうなテーマや使われそうな技術を提示していること。その世界観を現実の社会で実現したかったんです。
SFの世界観から学べることはほんとうに多い。押井さんのいわれるとおり、そこから「ビジョン」が生まれることは多々あります。いまこそ私は日本企業の経営者に「『攻殻』を観ろ」といいたい。そこで描かれた夢の世界を実現していくのは、楽しいじゃないですか。
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